入局してから私が過ごした3年間は、
かの名馬オグリキャップが
1988年に中央に移籍してから
1990
年に引退するまでの3年間と同じ年月である。
中央入りしてから有馬記念で引退するまでの
「競馬の歴史を動かした」とまで言われる彼の
3年間は、
輝かしい年月だったと評価されることが多い。
しかし、実際には、人の欲望と風評に振り回され
それに抵抗し続けた
3年間であった。

 もともとは、さほど期待がかけられた馬ではなかった。
生まれつき足が曲がっており、立って母親の乳を飲むのにも苦労していたという。
馬主である小栗氏の冠名「オグリ」と、父親ダンシングキャップの一部をとって
オグリキャップ、実に簡単に適当につけられた名前であった。
地方競馬でも特に古臭い笠松競馬でデビューを飾ったオグリキャップは、
初戦を2着に敗れたあとに
11連勝、小栗氏もびっくりの活躍を見せた。
さらに、オグリキャップの活躍に地方競馬から中央競馬への移籍が持ち上がったが、
小栗氏は「私の馬は笠松でしか走らせない」と頑なに拒否を続けていた。

 しかし、熱心に交渉を続け、
最後にオグリキャップを「譲り受けた」のが中央馬主の佐橋氏であった。

「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」
「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」
と再三にわたって説得し、その熱意に小栗氏が折れたと言われているが、
バブル景気のさなかでの出来事、
実際は数千万単位と多額の金銭の授受があったとされている。
こうしてオグリキャップは
1988年に3歳で中央競馬に移籍してきた。
中央デビュー戦を圧勝、次に
GV毎日杯でも
同世代の馬を子供扱いしたオグリキャップは、
当然皐月賞とダービーを目指すものと思われていた。

 しかし、地方競馬出身のオグリキャップには
中央競馬のクラシック参戦の資格がなかった。
「これだけ強い馬がダービーに出られないなんて」
とファンから批判が巻き起こったが、中央競馬会は
「登録料二百万円が払われていない」と、
オグリキャップの参戦を認めなかった。
馬自身はそんなことには興味がないようで、
一般戦で連戦連勝の活躍を続けていた。

 この頃になると、
「どうやらオグリキャップは本物の怪物らしい」と評されるようになった。
また、地方競馬から中央のスターにのし上がった経歴は、
当時のバブル景気に沸き「競馬界に新規参入した社長さん」や、
「社長さんの横について初めて競馬場にきたおネエさん」を虜にした。
当時の最強馬タマモクロスに挑戦し天皇賞、ジャパンカップと敗れながらも
最後の有馬記念でタマモクロスを打ち倒し、
現役最強馬となったことで人気は爆発した。

 一方で、オグリキャップの関係者には不穏な空気が漂っていた。
馬主の佐橋氏が脱税で中央馬主の権利をはく奪され、
またもオグリキャップが身売りをしなければならなくなったのである。
数十人にも上る候補の中から、もっとも高い数億円という金額を提示した
近藤氏に売却されたが、この金がのちにオグリキャップを苦しめることになる。

1989年、4歳のオグリキャップは脚部の故障で春を全休し、
秋のオールカマーから始動した。
馬主にとって、数億円で買った馬が半年間も牧場で遊んでいては当然困る。
この頃既に確立しつつあった、ステップレース
1戦とGT3戦という
秋競馬のローテーションを無視した近藤氏は
「勝てるレースは全て出走する」とステップレースを
2戦使い、
さらに
GT初戦の天皇賞で負けたことで
マイルチャンピオンシップからジャパンカップへの連闘を発表した。
これでオグリキャップの
GTの4戦が決まった。
誰が見ても無理使いなのは明らかで、
「金を取り返すためだ」「アイドルホースを壊さないで」などと
近藤氏は散々マスコミに叩かれたが、
オグリキャップはそんなことを気にもかけずに走り続けた。
そこに人間の欲望など全くないかのように、
常に本気で素直に走り続けた姿は競馬ファンの感動を呼んだ。
マイルチャンピオンシップ勝利の後ジャパンカップでは
世界レコードタイの
2着、最終戦の有馬記念では疲労が出て5着。
この年のクリスマス商品でもっとも売れたのは
オグリキャップのぬいぐるみだったという。

1990年、春の安田記念は快勝したものの宝塚記念で2着に負けた頃から
オグリキャップの強さに陰りが見え始める。
天皇賞、ジャパンカップと掲示板にも載れない惨敗の連続。
競走馬は当然生き物で、競争能力も
5歳秋ともなれば
衰えを見せるのが普通である。
しかし、当時のオグリキャップファンはそうは考えなかった。
「去年にあんな無理をさせたから」「やっぱり壊れた」などと、
オグリキャップの関係者に非難が集中した。
「以前の気迫が全くなくなった」「腰の筋肉がゲッソリと落ちている」などと、
競馬評論家も手のひらを返したように批判を繰り返し、
あれだけあった人気が一気に下落した。

そんな中、引退レースとなった有馬記念。
ファンの事前投票では
1番多く票を集めたものの、当日は4番人気。
予想紙にも批判的な内容が躍った。
「かつての名馬の引退レースだから」と中山競馬場には
17万人もの人間が来場したものの、
パドックをとぼとぼ歩くオグリキャップの姿を見て、
多くの人がため息をついたという。
当時友人の家で中継を見ていた少年(当時
10歳)も、
パドックでのオグリキャップの記憶は残っていない。

レースは超スローペースで始まった。
若い馬たちは我慢が利かずスピードを上げたいと首を振り、
スピードを抑えようとする騎手と喧嘩をしていた。
そんな中、オグリキャップは馬群の中でじっと
その機会を待っているように見えた。
最終コーナーにさしかかった頃、
オグリキャップが先行集団にとりつき、
最終コーナーを過ぎたあたりで先頭に立った。

実況アナウンサーが「さあ頑張るぞオグリキャップ!」と声を張り上げた。
が、オグリキャップの加速は全盛期にはほど遠いものだった。
いつもなら突き抜けるのに、今はそれが出来ない。
後ろからは追い込み馬が迫ってくる――― 
しかし、オグリキャップは体が衰えても闘志は衰えていなかった。
何度も後ろから寄られてはその度に前に首をのばし、
ついに先頭を譲らずゴールしたのである。

17万人の観衆から一斉に歓声が沸き起こった。
実況アナウンサーが涙声になり何を言っているのか聞き取れなかった。
テレビ中継のこちら側でも友人の父が泣き叫んでいた。
当時はなんで泣いているのかさっぱりわからなかったが、
その中継シーンは今でも忘れられない。
ウイニングランを決めるオグリキャップに、
「オグリ!オグリ!」とオグリコールが飛んでいた。
ファンの誰もが、実はオグリキャップの復活を望んでいたのだと思う。
馬主だとか金だとか、人災による衰えだとかは
もはやテレビの評論家の誰も口にしなかった。
ただ、オグリコールが夕暮れの中山に響いている様子が写されていた。

バブル経済に毒された人々によって、
オグリキャップの競争生活は大きく振り回された。
金銭トレードで馬主が次々に変わり、
にわかファンによって常に過剰な人気に祭り上げられ、
無理なローテーションを強要された。
負けると酷評され、勝手に引退説までささやかれたこともあった。
馬自身はそんなことを全く気にしないで走り続けた、ように見える。
あの
3年間でオグリキャップを応援した多くの人が、
「自分もこういう強い人間になれたらいいなあ」と考えていた、
かどうかはわからないが、
薄っぺらで不安定な社会の中にも
オグリキャップのように他人に影響されずに
自らを貫いた存在がいたことを感じていたはずである。
人間の現役は競走馬よりもはるかに長く、
たった3年程度では済まされないだろうが、
できれば私もオグリキャップのように自らを貫く生き方でありたい。

つい先日(といってももう去年になる)、
ファンサービスの一環としてオグリキャップが

18
年ぶりに東京競馬場に来場することになった。
当日私は朝
7時から並んで観覧席の一列目を確保した。
意外にも同年代くらいの若者も数人混じっていたが、
多くは当時からの競馬ファンであろう中高年の男女であった。
時代は流れ人も姿を変える。
おそらく当時は派手だったであろう中年の男女の佇まいと、
真っ白に毛色を変えたものの元気に跳ねまわる

23
歳になったオグリキャップが対照的だった。
目の前のオグリキャップに
「全く気にしていないように見えたが、
実は人間の意図に抵抗していたんじゃないか?」
と当時の気持ちを教えてもらおうかと思ったが、
こっそり話しかけても返事はもらえず、
結局答えはわからずじまいだった。