ヒシミラクル とある夫婦の物語

(2014年 機関誌に寄稿)
(競馬雑誌の小説に応募したものの返信なく落選した作品。たぶん)
(競走馬の名前と戦績以外はすべて創作です。)

003年6月27日金曜日。WINS新橋(場外馬券売り場)。昼下がりの太陽に照り付けられたコンクリートは人を寄せ付けず、そこにはのどかに散歩する鳩の姿しかなかった。週末に春競馬の締めくくりであるG1レース宝塚記念が控えているとはいえ、こんな平日から馬券を買いにくる狂人などそうそう居ない。窓口の売り子の女性があくびをして目をこすったその時、その男は突然現れた。

が黙って差し出した当たり馬券は、6月8日安田記念の勝ち馬アグネスデジタルの単勝130万円分。オッズ9.4倍の払い戻しで1222万円になる。これだけの大金となると手続きが必要で、平日に来てくれたことはありがたい。

「少しお待ちください。別室で準備いたします」

立ち上がった売り子の女性を制し、男が始めて口を開いた。

の配当金全額で、ヒシミラクルの単勝を買いたい。」

003年6月27日夕方。競馬ニュースサイトはちょっとした騒ぎになっていた。まだ馬の様子もわからない前売りの段階でヒシミラクルという馬に単勝の大量投入があり、断然の一番人気に祭り上げられていたからである。確かに菊花賞、天皇賞春とG1を2勝しているが、スタミナに長けるものの加速が悪く3000m級の長距離向きと言われていた。ほかのスピード自慢の馬たちが多く揃った春のグランプリ、2200mの宝塚記念では明らかに分が悪いように思えた。さらに、WINS新橋の窓口の売り子が

「特に金持ち風の男には見えなかった」

などとその謎の男について細かにインタビューに答えたものだから、ネットの掲示板には

「人生を投げたな」

「ギャンブル狂の憐れな最期だ」

「どこかで横領した闇の金なのだろう」

などと揶揄中傷するコメントが並んだ。2003年6月29日日曜日のレース前には、ほかの有力馬の単勝も売れてきたためにヒシミラクルは6番人気オッズ16.3倍にまで人気を下げていた。2日前の男の話題もまた、ファンの最強馬論議や競馬記者の新着記事に上書きされレース当日にはすっかり忘れられていた。

夏の阪神競馬場、それぞれのファンの想いを載せて、眩しい青芝の上でスタートのゲートが開いた。

 

 

、いいところで話を切ってしまうが、私はこの謎の男を知っている。ややくたびれた茶色の薄手の背広を羽織った、「それほど金持ちそうに見えない男性」と私は2003年に会っている。彼は、大学病院に入院していた患者だった。

学生の私が病棟実習を始めた2003年4月、一番始めに配属されたのが糖尿病内科だった。彼はコントロールの悪い糖尿病のために教育入院をしており、体はすこぶる元気なのだがとにかく退屈でならない、と担当になった私に話してくれた。やや小柄で短髪やや薄めの頭、精力的な働きぶりを想像させる日に焼けた肌と白い歯を見せる笑顔が印象的だった。日中は彼に奥さんが付き添い、この人は食べるのが大好きで困るんですよ、といつもにこやかに話してくれていた。ベッドサイドには競馬新聞が置かれ、私は2回りほども年齢が違う彼となんとか共通の話題を持ちたいとウズウズしていた。病棟内ではさすがに競馬の話題は自重していたが、日課の散歩に付き合った折には中庭のベンチに座りその話題で大いに盛り上がった。今年のクラシックは良い馬に良い騎手が乗る、第一冠の皐月賞はおそらくネオユニヴァースが獲るはずだ。第二冠の日本ダービーもおそらくネオユニヴァースが獲るだろう。と、彼は熱く語っていた。仕事を早期退職してもうゆっくりすることに決めた、去年はようやく妻を京都旅行に連れていけたよ、菊花賞に妻を招待したんだ、と彼が力説すると、そこで初めて馬券を買ってしかも当たったんですよ。葦毛(灰色の毛並)がとても綺麗だったのとミラクルだなんて可愛い名前だったから、と奥さんもニコニコしながら話を合わせた。こいつは大穴を当てる天才なんだ、もっと早く競馬を教えてあげればよかった、と彼は頭を掻いた。夫が仕事を辞めてようやく好きなことに熱中できるようになったのだから私も一緒に楽しむことにしたのです、とまた奥さんが笑う。来月に京都競馬場で行われる春の天皇賞も観戦に行くらしい。羨ましかった。競馬をきっかけにして2人の笑顔が増えたのだから、素晴らしいことだ。当時医学生の私は黙って相槌を打っているだけでよかった。微笑ましかった。

002年の菊花賞は京都3000mの舞台で行われたクラシック最後の冠で、一番人気ノーリーズンがスタート直後に落馬し競走中止になり、スタート直後に馬券全体の半分が紙屑になる大波乱となった。観客の怒号の中、馬群が直線に差し掛かったときに外からゆっくりと、だが力強く、10番人気の葦毛の馬体が前に出た。ヒシミラクルは加速こそ悪いがいったんトップスピードに乗ったらもう他の馬は追いつけない。それを見越した騎手が常識外れの早仕掛けでこの波乱の菊花賞を勝ち取った。しかし、ゴール前はほかの馬に詰め寄られるなど弱さを見せたために、このレースだけの一発屋だろうという評価が多かった。1番人気が事故で勝てなかっただけで、この馬が強かったわけではない。そういった「競馬の常識」は、しばしば真実を曇らせる。

週間の教育入院を経て、彼は退院していった。毎日の散歩や食事療法の甲斐もあり、血糖値は適正化されていたように思う。彼が退院した週、2003年のクラシック第一冠・皐月賞が行われたが、彼の予言通りネオユニヴァースが他の馬を退けて勝利した。これでは日本ダービーも確勝だろう、と思えた。次のG1レース、春の天皇賞にはまたヒシミラクルが出走してくる。しかし、対戦相手も強化されるし今度勝つのは不可能だろう。それほど強くないのだから。と、「競馬の常識」にカブレた当時の私は考えていた。

003年5月4日。私は府中競馬場に居り、メインレースの春の天皇賞を大スクリーンに映し出された実況中継で観戦した。3歳限定戦の菊花賞とは異なり全年齢の長距離砲の馬が揃う春の天皇賞3200mは真のステイヤー決定戦である。前年菊花賞を制したヒシミラクルは菊花賞のあと人気を裏切り負け続け、ここでは7番人気まで人気を落としていた。スタートから澱みなく、息の入らない厳しいレース展開となった。他の馬が元気に走る中ヒシミラクルは何かゆったりと、のんびり走るように見えた。他の馬に置いて行かれそうになったバックストレッチで、ゴールまであと2000mもあるのに騎手が突然ゴーサインを出した。常識外れの早仕掛けに呼応しヒシミラクルが加速を始める。その時、奥さんと彼の、2人の笑顔が私の脳裏をよぎった。忘れていた。完全に忘れていた。菊花賞と全く同じだ、これは!と思ったときには、直線で並み居る強豪を外から灰色の稲妻が一気に抜き去っていた。豪脚一閃。彼と奥さんは京都までこのレースを観に行くと言っていた。また彼は、奥さんは、馬券を当てたのだろうか。自分のチンケな競馬の常識が憎くてならなかった。

ールデンウィークが明けると、実習は救急医学へと移った。ここは忙しかった…それこそ医学以外を気にしている余裕などなかった。彼と奥さんのことも、毎日の繁忙でまた忘れかけていた。後になってみれば、もう2度と会わずに忘れられたほうがよっぽど良かったのに、と思わずにはいられない。

月も中旬を過ぎたある朝、救急センターに患者搬送のホットラインが鳴り響いた。いつものこと、と慣れてしまった自分が患者情報の名前を見て心臓が止まるかと思うほどびっくりした。彼の奥さんが脳幹出血で運ばれてくる。呼吸は努力様で挿管が…と指示が飛び、いつも準備していることだがその日は処理が追いつかないほど動転していた。その後しばらくの記憶が曖昧だが、彼の顔を見ないように避けていたのは覚えている。医学生の私が受け止めるには事態が重すぎた。できることならその場を逃げてしまいたかった。

日が過ぎた後にも、奥さんの意識は回復しなかった。彼は毎日見舞いに来て、ベッドのそばに寄り添っては何事か声をかけていた。以前に朗らかだった彼の見る影もなくなり、何度かは私と目の合う機会もあったが挨拶も交わせないほどだった。

治医からの病状説明の際に、なぜか私が呼ばれた。実習の一環、そう念じて部屋に入り、主治医の陰に隠れるように座る。呼吸が戻っても意識が戻る可能性は低い、この状態で転院先を探す……私からは彼の顔はよく見えなかったが、彼は独り言のようにボソリとつぶやいた。

「京都旅行は楽しかった」「また妻が馬券を当てたよ」と。

私が顔を上げると、彼はまっすぐ私を見ていた。主治医を見ずに、私に語りかけていた。

「二人で競馬旅行。夢だったんだ、前から」

「金だって、貯めてあったんだよ、50万円」

そこまでしゃべると、彼が突然声を荒げた。

「もう旅行に行けないのかよ!これからだったんだよ!」

それから彼は声をあげて泣いた。主治医が彼を慰めていたような気がするが、彼は私に慰めてほしかったのかもしれない。受容、共感。医師としてのスキルが、当時の自分には全く欠けていた。

「もう楽にしてやってくれ」

彼は主治医に懇願したが、その願いは聞き入れられなかった。

 

転院のその日、奥さんはいくつかのチューブとともに、そして彼と、付き添いの医学生の私が救急車に乗り込んだ。志願して乗り込んだとはいえ、もはや話題など何もなかった。

「どうしようかな、50万円」

「妻は競馬をやれって言うかな、好きなことをやれって」

と、つぶやく彼に、私は黙って頷くことしかできなかった。

 

この車内の数十分間を、おそらく私はずっと後悔し続けるのだろう。

 

「良い医者になってください」

心に重く刺さる言葉を残して、彼は奥さんとともに転院先の病院の奥に消えていった。

 

の奥さんが退院した週の日曜日6月1日に、日本ダービーが開催された。その年の3歳馬で一番強い馬を決めるこの戦いは、ネオユニヴァースが危なげなく勝利した。単勝オッズは2.6倍。私は暗い気持ちを晴らそうとこの日も府中競馬場の人混みの中にいたが、どうしても彼のことを思い出さずにはいられなかった。宙に浮いてしまった50万円でもし彼がネオユニヴァースの単勝を買えば130万円になる。

 

 

頭の「謎の男」、当時は「ミラクルおじさん」とあだ名のついたこの男が、安田記念アグネスデジタルの単勝馬券を「130万円」という中途半端な額で持っていたのはなぜか。ミラクルおじさんは6月1日に行われた日本ダービー・ネオユニヴァースの単勝馬券50万円を的中させ130万円に膨らませ、その全額を翌週6月8日のG1安田記念・アグネスデジタルの単勝馬券に投入したに違いない。ただしネオユニヴァースは1番人気での圧勝だったが、アグネスデジタルは4番人気オッズ9.4倍、前走も負けており大金を安心して放り込める馬ではなかった。なぜこうした、神懸った単勝転がし(連続的中)ができるのか。競馬評論家も舌を巻くばかりだった。……だが、あの彼ならば。と考えれば、私の頭の中ではピタリと符合するのである。(余談だが、アグネスデジタルは好不調の波が激しい馬で好走→凡走→好走を繰り返しており安田記念は好走するパターンに嵌っていた。さらには、2年前の天皇賞秋を勝っているように、瞬発力を必要とする府中の馬場で最高のパフォーマンスを発揮できる馬だった。)

た、宝塚記念でヒシミラクルを買う理由も彼の内情を知らなければ不可解であった。前述したようにヒシミラクルは長距離専門で2200mの中距離では他の馬にスピードで見劣っており、さらには日本ダービーを快勝したネオユニヴァースや安田記念を勝ったアグネスデジタルも宝塚記念に参戦していたからである。少なくとも、一度は馬券でお世話になった馬を見限って全額を他の馬の単勝に投入することなど並のファンの心情では出来ない。宝塚記念はヒシミラクルに決めている、これまでの単勝転がしはすべてヒシミラクルへの布石、のように思えるのだ。だが私には理解できる。その馬は、彼の奥さんが初めて競馬を見て、初めて好きになった馬だったから。しかし、さすがに今回は勝つのは無理だろう。相手が悪すぎるしヒシミラクル自身の適性もない。奥さんのために、彼は元手50万円をこの灰色の馬に捧げるつもりなのだろう。

 

2003年6月29日、初夏の宝塚記念2200m。
スタートから快速自慢の馬たちが飛ばしていく。
アグネスデジタルはそれらの馬を見るように中団に構えている。
ネオユニヴァースはクラシック連戦の疲れがあるのか
全体の流れについていけず後方でもがいている。
ヒシミラクルは、と画面にその姿が映ったとき

「あっ」

私は思わず声を上げてしまった。
常識外れ、早仕掛けなどというものではない。
スタートとほとんど同時に騎手が馬に気合をつけて
ゴーサインを出しているのである。
中距離2200m。
確かにヒシミラクルがトップスピードに乗るまでに2000m以上が必要だ。
しかし、競馬というのははじめに馬の力を温存させ、
ゴールの位置に合わせて力を弾けさせる競技だ。
スタートからアクセル全開では馬のスタミナが持つはずがない。
しかも、気合をつけてもすぐにはスピードに乗れないヒシミラクルは
馬群の後方に置かれたままだった。

前の争いは厳しさを増し、ラップの緩まないタフなレースになっていく。
アグネスデジタルなどスタミナのない馬は次々とバテて争いから脱落していき、
コーナーをまわって直線を向いたときには
前年の年度代表馬シンボリクリスエスが先頭に立っていた。

だが、シンボリクリスエスもバテバテで脚がおぼつかない。
他の馬も一様にバテておりこのまま雪崩れ込むようにゴールか、
に思えたその時、

アナウンサーの叫びととともにカメラが猛然と追い込む葦毛の姿を捉えた。

「ミラクルが来た!」

スタートから気合を入れ続けて
やっとトップスピードに乗ったヒシミラクルが、
ゴール直前に大外から馬群を一気に差し切ってしまったのである。

またしても灰色の稲妻が私の網膜に焼き付いた。
前年の年度代表馬もダービー馬もこの豪脚には成す術なし。
スタートからゴールまでずっとアクセルを踏むことで、
ゴールの時にトップスピードになるように計算された騎手の作戦だったのだ。
それに応えた馬も見事だった。

だが……それでも、この馬が勝てたのは
誰かの思念がこの馬と騎手の背中を押したからではないだろうか。
そう思えるくらい、劇的な幕切れだった。

シミラクル号は菊花賞10番人気、天皇賞春7番人気、宝塚記念6番人気と、G1での勝利はいずれも人気がなかった。マグレ勝ち、ミラクル勝ちなどと揶揄されていたが、この馬自身は豊富なスタミナに裏打ちされたトップスピードの持続力が持ち味の、とても強い馬だったと思う。直線手前まで馬の力を温存し歩くような速度で駆け、直線でヨーイドンをするようになった現代競馬、所謂「スローペース症候群」という「競馬の常識」にたった一頭で立ち向かった最後のステイヤーであった。同じような勝ち方しか出来なくなった他の馬と比べ、尊敬の意味をこめて「最後の個性派」とも呼ぶファンもいる。私もその一人だ。その後も現役生活を続けたヒシミラクルだが、宝塚記念の勝利を最後に2度と勝つことはなかった。

 

 

塚記念の翌日から、ミラクルおじさんはワイドショーでも特集されるほどに注目を集めた。ミラクルおじさんが買ったヒシミラクルの単勝馬券1222万円分はオッズ16.3倍をつけ、払戻金は約2億円(1億9918万円)となった。どこの誰なのか、なぜそんな無謀な買い方が出来たのか、ひょっとしたら結果を知っていた未来人なのではないか(大真面目にそう述べる評論家もいた)。ワイドショーや新聞、雑誌記者がミラクルおじさんの素性を暴こうと手を尽くして探し回ったが、その後の顛末をJRAが…当然だが…全く明かさなかったために謎は謎のままで騒ぎは終息した。10年以上経った今では覚えているファンのほうが少ないかもしれない。WINS銀座で払い戻しが行われたという噂があり、その噂によれば、換金を終えた後に本人はこう言い残したという。

後は一切競馬をやりません」

どうだろう。彼はその2億円を抱えて静かに余生を暮していくのだろうか。

は10年以上飛んで2014年6月1日、日本ダービー当日。応募者40人に1人の抽選を潜り抜けて、競馬場のS席指定が当たったので久しぶりに府中競馬場に参戦した。馬券を買うファンから馬自身を買う一口馬主へと転身し、もう馬券の買い方などすっかり忘れてしまっていたのでコテンパンにやられてしまった。まあ、眺望の素晴らしい席が当たった時点で運は尽きてきた、   しょうがない   と、後ろを振り返った瞬間、

視界の隅に見覚えのある茶色の背広が映った。

飛び上がるように席を立ち、まだ遠くに見えるその姿を追いかける。押している車いすに乗っているのは奥さんだろうか。ミラクルおじさん、待ってくれ。言いたいことはたくさんあった。まだ半人前だけど医師になれた、結婚したんだ、今は競馬が嫌いな妻だけどそのうち面白いって言わせてみせるさ、馬主になろうとさえ思っている、今ならあなたに少しは気の利いた言葉だって言える……目先の角を曲がった先には、もうその姿はなかった。

また競馬を続けていればいつか会える。

世代は違うけれども、同じ趣味を分かち合った友なのだから。

(※ 競走馬の戦績以外は全て創作です 念のため)